無 垢

 奥寺櫂(おくでらかい)はビルとビルの隙間に小柄な体を押し込み、黒いコートのポケットから古ぼけた朱色の手鏡を取り出した。その鏡の部分を覆っている、薄汚れた布製のカバーを外す。それは微かに白粉の匂いがした。櫂は鏡を覗き込む。心細くなった時の彼の癖だ。自信の無さそうな目が、鏡の中からこちらを見ている。その目の向こうで、一台の車が停まった。
櫂はポケットに手鏡を突っ込み、代わりにナイフを取り出す。車の後部座席から降りて来た男の顔を確認すると、道路へと飛び出した。人生を変える光に向かって、自分は走り出したのだと櫂は信じていた。



ひとつ

 約束の時間に三十分も遅れ、私は焦って店に飛び込んだ。アパートの近くの小さな洋食屋である。昼時の店内に、サザンオールスターズの「いとしのエリー」が流れていた。








 

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