無 垢
奥寺櫂(おくでらかい)はビルとビルの隙間に小柄な体を押し込み、黒いコートのポケットから古ぼけた朱色の手鏡を取り出した。その鏡の部分を覆っている、薄汚れた布製のカバーを外す。それは微かに白粉の匂いがした。櫂は鏡を覗き込む。心細くなった時の彼の癖だ。自信の無さそうな目が、鏡の中からこちらを見ている。その目の向こうで、一台の車が停まった。
櫂はポケットに手鏡を突っ込み、代わりにナイフを取り出す。車の後部座席から降りて来た男の顔を確認すると、道路へと飛び出した。人生を変える光に向かって、自分は走り出したのだと櫂は信じていた。
櫂はポケットに手鏡を突っ込み、代わりにナイフを取り出す。車の後部座席から降りて来た男の顔を確認すると、道路へと飛び出した。人生を変える光に向かって、自分は走り出したのだと櫂は信じていた。
街の端っこに建っているその観覧車から昼間は海の波の煌きが、夜は贅沢な都会の夜景が楽しめる。恋人達や観光客がその僅かな娯楽を求めて訪れるのだが、今日は昼前から降り出した冷たい雨の為に、客足は先程の二組のカップルを最後に途絶えていた。揃いの赤いジャンパーにキャップを被った三人の係員達は、もう店仕舞だな等と談笑していた。其処にふらりと櫂が現れた。責任者の北川が不審に思い近付くと、「 乗せろ 」と櫂は血の付
いたナイフを彼に向けた。係員達の顔が強張る。
「か、観覧車ですか?」
北川が震える声で問うと、頷く櫂。
「山下君、お乗せして」
北川に命じられ、一番若い山下が緊張しながら櫂を乗り場まで案内する。そして観覧車に乗り込んだ櫂に「良い旅を」と、山下はいつも客にする様に言葉を掛けて扉
を閉めた。それを聞いた北川が苦笑する。
「良い旅も何も・・・。一周して戻って来た時には、此処は警官でいっぱいさ」
北川は、携帯電話のダイヤルボタンを押し始めた。
櫂は観覧車の中で、コートのポケットから再び朱色の手鏡を取り出す。これを貰ったのは五歳の時だった。白粉の匂いと父の整髪料の匂いが入り混じった車の中、助手席に座っている櫂の後方から女の手が伸びて来て、彼の膝の上にこの手鏡を落とした。それは彼女の持ち物だが、櫂に呉れると言う。櫂は女の方は見ずに、貰っても良いか運転席の父の顔色を窺った。父はルームミラーを見詰めている。後部座席に座っている女を見ていると櫂は感じた。多分彼女も、ルームミラーを通して父を見ているに違いない。結局、顔も知らない女の手鏡は、その日から櫂の物になった。
櫂は朱色の手鏡のカバーを外した。
「四十にもなって若い連中に馬鹿にされていたが、俺もとうとうでかい事をやった」
櫂は鏡に向かって笑ったが、腹の傷が痛くて呻き声に変わってしまう。標的の男を刺した後、混乱に乗じて逃げ出した櫂の腹を、拳銃で撃ち抜いた冷静な男がいたのだ。その儘倒れて楽になろうと思った時、この観覧車が見えた。降り出した雨に煙った観覧車は、櫂にはこの世の物では無い気がした。
(確かめてやろう。本当に彼処に観覧車があるのかどうか)
そんな子供染みた考えに衝き動かされて、此処まで逃げて来た。自分でも可笑しいと櫂は思う。住み慣れた街で、街の外れに観覧車がある事なんて知っていたのに。櫂の故郷にも、彼が生まれた昭和三十年代に『県下初のデパートが誕生』と騒がれた、その百貨店の屋上遊園地に観覧車があった。櫂も一度だけ乗ったが、それは情けなくなる程寂しい思い出だった。
櫂が手鏡を貰ってから数週間後の日曜日、妻に労りの言葉を掛け、父は櫂を百貨店へ連れ出した。櫂の母は二番目の子を妊娠していて、悪阻が酷かったのだ。百貨店で櫂は父の手に縋って「せーの」でエスカレーターに乗り、屋上遊園地まで行った。其処では飛行機やパトカー等の乗り物が、子供達を心地良く揺すっている。小さいながらも、観覧車やメリーゴーラウンドも回っている。秋晴れの空の下、はしゃぐ同じ年頃の子供達に臆してしまって、櫂は父と繋いだ手に力を込めた。
「好きな物に乗って良いぞ」
父が何度促しても櫂は俯いた儘だ。「可愛くないな」と持て余した父の口から、そんな言葉さえ洩れる。焦った櫂は「観覧車」と投げ出す様に言った。父子は観覧車の順番待ちの列に並んだ。ところがもう少しで乗れるという所で、父は櫂の手を離してしまった。
「観覧車から降りたら、此処で待っていなさい」
父はそう言うと遊園地を出て行く。振り返りもしなかった。突然の事で、櫂はその場を動けなかった。そして前の親子が降りて空になった観覧車の中に、多忙な係員に因って櫂は押し込められてしまう。大人が二人も乗ればいっぱいであろう窮屈な箱の中で、櫂は父が去った遊園地の出口の方ばかりを見ていた。父が戻って来るかどうか気が気ではなかった。
夕方になり、寒さが客達を家路へと追い立て始める。その頃になってやっと櫂は、観覧車の側のベンチに座っている所を、遊園地の係員に気付いて貰った。連絡を受けた自宅から、母の弟の信悟がやって来た。彼は無責任な父親に間違われて、不機嫌になった。櫂は叔父が迎えに来た事を不思議に思ったが、アパートの自宅に帰ると母方の祖父母までいて驚く。櫂の顔を見て、祖母が父を責め始めた。
「子供を出しに使うなんて。女と逃げて、心中でもするつもりだったのか」
祖母の隣で、祖父がからからと笑った。
「こいつにそんな度胸があるものか。ふん、女は来なかったんだろ。捨てられたのさ」
小柄だががっちりとした体躯の父が、正座をしたまま項垂れていた。祖父母は、朱色の手鏡を呉れた女の人の事で父を責めている。櫂はそう感じた。では父はあの人と、何処かへ行ってしまう積りだったのか。櫂もそう訊きたくて父の側へ行こうとしたら、信悟に「あっちへ行っていなさい」と追い払われてしまった。
あっちとは母の事かと、櫂は母親を探して隣の部屋との間の襖を開けた。明りも点けずに、母は背を向けて畳の上に直に横になっていた。冷えた体を母に抱き締めて欲しくて、櫂はわざと音を立てて母のすぐ後ろに座ったが、母は振り向きもしない。櫂は不安になる。観覧車に乗っている間に自分は透明人間になってしまい、父にも母にも見えないのではないだろうか。
母の気を引く物を探して部屋の中を見回すと、隅の方で鏡台の四角い鏡が、隣の父達の居る部屋の照明を受けて光っている。櫂は鏡台の上から、母のお気に入りの大きな丸い手鏡を持って来て、後ろから母の顔の前に翳した。その瞬間、母は物凄い勢いでそれを払った。鏡が箪笥に当って砕けた。怯えて身を固くする櫂。母は何を見たのだろう。
それから間も無く、「 赤ちゃんはいなくなった 」と櫂に告げたのは父だった。母のお腹の中の赤ん坊も、透明になってしまったのかなと櫂は思った。
「一緒にお前を迎えに行くつもりだった。だが、来なくて・・・」
父が日曜日の事を思い出して、言葉を詰まらせる。櫂は玩具箱から朱色の手鏡を持って来て、父に渡した。父は厚ぼったい手の中にそれを置いて、優しく見詰めた。櫂にははっきり分かった。あの女(ひと)は手鏡を、自分にではなく父に寄越したのだ。そして父は家を出て行った。女の人を捜しに行ったに違いない。櫂はそう考えると、玩具箱から父が置いて行った手鏡を拾い、ポケットの中に入れた。
母とは小学校を卒業するまで一緒に暮らしたが、春休みに櫂を弟の信悟に預けて何処かへ消えた。母は朱色の手鏡の贈り主を知ってしまった、と櫂は確信している。父子してあの女に心を奪われてと憤ったのだ。どうして母にそんな思いをさせる前に、手鏡を捨ててしまわなかったのかと櫂は自身に問い掛けてみる。それはやはり、これが父と繋っているからだろう。あの女性と一緒にいるならば、父はこの手鏡を通して息子を見守っている筈だ。櫂はそんな自分だけの御伽話をでっち上げて、心の拠所にして来た。
櫂は血の付いたナイフを観覧車の床に捨てると、再び手鏡を覗き込んだ。「 お父ちゃん 」と子供の頃の様に鏡に呼び掛ける。
「俺、もう四十になっちゃったけど、刑務所からだけどさ、やり直せるかな」
鏡の中の櫂が、父親似の柔らかな表情で微笑んだ。
櫂の乗った観覧車が下に着いた。扉が外から開けられる。眩しそうに櫂がそちらの方を見る。赤い係員のキャップを目深に被った男が、低く「有難う御座いました」と言った。同時に銃声が響く。櫂が持つ朱色の手鏡を銃弾が撃ち砕き、更に櫂の体を貫通した。男の手に拳銃が握られている。その赤いキャップの男は山下ではなく、櫂の腹を撃ち抜いたあの冷静な男だ。男は櫂に向かって拳銃を撃ち続けた。鏡の破片の中に転がる櫂。その最期の顔を鏡の破片が映している。若い男が走って来て、男に声を掛けた。
「兄貴、ボスの傷は大した事無いそうです」
「そうか」と男は赤いキャップと拳銃を、その若い男に渡した。
「後は頼んだぞ」
男は烈しくなって来た雨の中、街へと帰って行く。若い男は、隅の方で震えている三人の係員達に言った。
「さあ、警察を呼ぶんだ。いいか、殺(や)ったのは俺だからな。余計な事は言うなよ」
櫂を乗せた観覧車が、ゆっくりと空へ昇って行く。
(終)
いたナイフを彼に向けた。係員達の顔が強張る。
「か、観覧車ですか?」
北川が震える声で問うと、頷く櫂。
「山下君、お乗せして」
北川に命じられ、一番若い山下が緊張しながら櫂を乗り場まで案内する。そして観覧車に乗り込んだ櫂に「良い旅を」と、山下はいつも客にする様に言葉を掛けて扉
を閉めた。それを聞いた北川が苦笑する。
「良い旅も何も・・・。一周して戻って来た時には、此処は警官でいっぱいさ」
北川は、携帯電話のダイヤルボタンを押し始めた。
櫂は観覧車の中で、コートのポケットから再び朱色の手鏡を取り出す。これを貰ったのは五歳の時だった。白粉の匂いと父の整髪料の匂いが入り混じった車の中、助手席に座っている櫂の後方から女の手が伸びて来て、彼の膝の上にこの手鏡を落とした。それは彼女の持ち物だが、櫂に呉れると言う。櫂は女の方は見ずに、貰っても良いか運転席の父の顔色を窺った。父はルームミラーを見詰めている。後部座席に座っている女を見ていると櫂は感じた。多分彼女も、ルームミラーを通して父を見ているに違いない。結局、顔も知らない女の手鏡は、その日から櫂の物になった。
櫂は朱色の手鏡のカバーを外した。
「四十にもなって若い連中に馬鹿にされていたが、俺もとうとうでかい事をやった」
櫂は鏡に向かって笑ったが、腹の傷が痛くて呻き声に変わってしまう。標的の男を刺した後、混乱に乗じて逃げ出した櫂の腹を、拳銃で撃ち抜いた冷静な男がいたのだ。その儘倒れて楽になろうと思った時、この観覧車が見えた。降り出した雨に煙った観覧車は、櫂にはこの世の物では無い気がした。
(確かめてやろう。本当に彼処に観覧車があるのかどうか)
そんな子供染みた考えに衝き動かされて、此処まで逃げて来た。自分でも可笑しいと櫂は思う。住み慣れた街で、街の外れに観覧車がある事なんて知っていたのに。櫂の故郷にも、彼が生まれた昭和三十年代に『県下初のデパートが誕生』と騒がれた、その百貨店の屋上遊園地に観覧車があった。櫂も一度だけ乗ったが、それは情けなくなる程寂しい思い出だった。
櫂が手鏡を貰ってから数週間後の日曜日、妻に労りの言葉を掛け、父は櫂を百貨店へ連れ出した。櫂の母は二番目の子を妊娠していて、悪阻が酷かったのだ。百貨店で櫂は父の手に縋って「せーの」でエスカレーターに乗り、屋上遊園地まで行った。其処では飛行機やパトカー等の乗り物が、子供達を心地良く揺すっている。小さいながらも、観覧車やメリーゴーラウンドも回っている。秋晴れの空の下、はしゃぐ同じ年頃の子供達に臆してしまって、櫂は父と繋いだ手に力を込めた。
「好きな物に乗って良いぞ」
父が何度促しても櫂は俯いた儘だ。「可愛くないな」と持て余した父の口から、そんな言葉さえ洩れる。焦った櫂は「観覧車」と投げ出す様に言った。父子は観覧車の順番待ちの列に並んだ。ところがもう少しで乗れるという所で、父は櫂の手を離してしまった。
「観覧車から降りたら、此処で待っていなさい」
父はそう言うと遊園地を出て行く。振り返りもしなかった。突然の事で、櫂はその場を動けなかった。そして前の親子が降りて空になった観覧車の中に、多忙な係員に因って櫂は押し込められてしまう。大人が二人も乗ればいっぱいであろう窮屈な箱の中で、櫂は父が去った遊園地の出口の方ばかりを見ていた。父が戻って来るかどうか気が気ではなかった。
夕方になり、寒さが客達を家路へと追い立て始める。その頃になってやっと櫂は、観覧車の側のベンチに座っている所を、遊園地の係員に気付いて貰った。連絡を受けた自宅から、母の弟の信悟がやって来た。彼は無責任な父親に間違われて、不機嫌になった。櫂は叔父が迎えに来た事を不思議に思ったが、アパートの自宅に帰ると母方の祖父母までいて驚く。櫂の顔を見て、祖母が父を責め始めた。
「子供を出しに使うなんて。女と逃げて、心中でもするつもりだったのか」
祖母の隣で、祖父がからからと笑った。
「こいつにそんな度胸があるものか。ふん、女は来なかったんだろ。捨てられたのさ」
小柄だががっちりとした体躯の父が、正座をしたまま項垂れていた。祖父母は、朱色の手鏡を呉れた女の人の事で父を責めている。櫂はそう感じた。では父はあの人と、何処かへ行ってしまう積りだったのか。櫂もそう訊きたくて父の側へ行こうとしたら、信悟に「あっちへ行っていなさい」と追い払われてしまった。
あっちとは母の事かと、櫂は母親を探して隣の部屋との間の襖を開けた。明りも点けずに、母は背を向けて畳の上に直に横になっていた。冷えた体を母に抱き締めて欲しくて、櫂はわざと音を立てて母のすぐ後ろに座ったが、母は振り向きもしない。櫂は不安になる。観覧車に乗っている間に自分は透明人間になってしまい、父にも母にも見えないのではないだろうか。
母の気を引く物を探して部屋の中を見回すと、隅の方で鏡台の四角い鏡が、隣の父達の居る部屋の照明を受けて光っている。櫂は鏡台の上から、母のお気に入りの大きな丸い手鏡を持って来て、後ろから母の顔の前に翳した。その瞬間、母は物凄い勢いでそれを払った。鏡が箪笥に当って砕けた。怯えて身を固くする櫂。母は何を見たのだろう。
それから間も無く、「 赤ちゃんはいなくなった 」と櫂に告げたのは父だった。母のお腹の中の赤ん坊も、透明になってしまったのかなと櫂は思った。
「一緒にお前を迎えに行くつもりだった。だが、来なくて・・・」
父が日曜日の事を思い出して、言葉を詰まらせる。櫂は玩具箱から朱色の手鏡を持って来て、父に渡した。父は厚ぼったい手の中にそれを置いて、優しく見詰めた。櫂にははっきり分かった。あの女(ひと)は手鏡を、自分にではなく父に寄越したのだ。そして父は家を出て行った。女の人を捜しに行ったに違いない。櫂はそう考えると、玩具箱から父が置いて行った手鏡を拾い、ポケットの中に入れた。
母とは小学校を卒業するまで一緒に暮らしたが、春休みに櫂を弟の信悟に預けて何処かへ消えた。母は朱色の手鏡の贈り主を知ってしまった、と櫂は確信している。父子してあの女に心を奪われてと憤ったのだ。どうして母にそんな思いをさせる前に、手鏡を捨ててしまわなかったのかと櫂は自身に問い掛けてみる。それはやはり、これが父と繋っているからだろう。あの女性と一緒にいるならば、父はこの手鏡を通して息子を見守っている筈だ。櫂はそんな自分だけの御伽話をでっち上げて、心の拠所にして来た。
櫂は血の付いたナイフを観覧車の床に捨てると、再び手鏡を覗き込んだ。「 お父ちゃん 」と子供の頃の様に鏡に呼び掛ける。
「俺、もう四十になっちゃったけど、刑務所からだけどさ、やり直せるかな」
鏡の中の櫂が、父親似の柔らかな表情で微笑んだ。
櫂の乗った観覧車が下に着いた。扉が外から開けられる。眩しそうに櫂がそちらの方を見る。赤い係員のキャップを目深に被った男が、低く「有難う御座いました」と言った。同時に銃声が響く。櫂が持つ朱色の手鏡を銃弾が撃ち砕き、更に櫂の体を貫通した。男の手に拳銃が握られている。その赤いキャップの男は山下ではなく、櫂の腹を撃ち抜いたあの冷静な男だ。男は櫂に向かって拳銃を撃ち続けた。鏡の破片の中に転がる櫂。その最期の顔を鏡の破片が映している。若い男が走って来て、男に声を掛けた。
「兄貴、ボスの傷は大した事無いそうです」
「そうか」と男は赤いキャップと拳銃を、その若い男に渡した。
「後は頼んだぞ」
男は烈しくなって来た雨の中、街へと帰って行く。若い男は、隅の方で震えている三人の係員達に言った。
「さあ、警察を呼ぶんだ。いいか、殺(や)ったのは俺だからな。余計な事は言うなよ」
櫂を乗せた観覧車が、ゆっくりと空へ昇って行く。
(終)
-
2005/12/23 |
- オリジナル小説 |
- Comment: 1 |
- − | [Edit]
- ▲
ひとつ
約束の時間に三十分も遅れ、私は焦って店に飛び込んだ。アパートの近くの小さな洋食屋である。昼時の店内に、サザンオールスターズの「いとしのエリー」が流れていた。
「ね、昨日の、観た?ドラマ」
謝ることも忘れて、背中を丸め漫画本に夢中になっている彼に私はそう訊いた。
「『学校どこですか?』って、きついよね」
だが彼は乗って来ない。話題を間違えたかな、と思いつつ油で少しべたつく椅子に座った。すると、やっと彼が顔を上げる。
「あれ?眼鏡は?」
「うん、コンタクトにしたの。変?」
否定してくれる事を期待して、微笑みを準備する。・・・一分待った。でも言ってくれない。
「化粧もしてるの?」
戸惑いが感じられた。こちらも駄目か、とがっかりする。が、「綺麗だよ」という思い掛けない言葉に、水とおしぼりを運んで来たママと私が同時に彼を見る。多分私に言ってくれたと思うのだが・・・。ママは勘違いに気付いたのだろう、真っ赤になって注文を訊いて来た。
「僕は海老フライ定食」
「あ、あの、ハンバーグ定食を」
あからさまなお世辞に、きっと私も赤くなっていたと思う。グーッと水を飲んで心を静めた。
「コップに口紅、付いてるよ」
私は慌ててナプキンで汚れを拭いた。
「化粧するんだったら、気を遣わなきゃ」
彼の言葉は正論故に、却って生意気に感じてしまう。彼は大学の映画同好会の一年後輩だが、一ヶ月程前に交際を申し込まれたばかりだった。
「男の人と付き合うの、初めてなんだ」
その時は、声ばかりでなく気持ちも上擦って、馬鹿正直に打ち明けていた。
「僕は三回目かな」
あちらも正直に告白した。益々こちらは卑屈になる。二番目の彼女とは同じ下町育ちで気が合った、とも言った。三番目の私は北の山国育ちだ。
「海老フライ、お待ち遠さま」
彼の前に置かれた皿には、大きな海老フライが三尾、行儀良く並んでいた。
「半分こしようね」
彼の言葉に曖昧な笑顔を作る。始めはひとつの物を分け合う事で、二人の親密度が増す様な気がして嬉しかった。彼にもそう伝えたが、それもこんなに続くと煩わしい・・・。と、顔に出てしまったみたいだ。
「あのさ、食べ物の事だけじゃないんだよ」
諭すように語り始める彼。
「楽しい事とか辛い事を、これからさ、二人で半分こできたらいいなって思ってるんだ」
そんな大層な意味があったとは驚いた。しかし、一尾の海老フライを正確に半分にしようと奮闘している姿は滑稽で、せこいとも感じる。やっぱり半分こされるのは、食べ物だけではないだろうか。
「はい、ハンバーグ、お待ち遠さま」
私のお腹がグーと返事をした。
「忘れないでね、半分こだよ」
彼がきっちり言って来る。「はいはい」という返事と同じ位いい加減に半分にしようとしたら、皿が消えた。
「駄目だよ、それじゃあ。こっち、先に食べてて」
強い口調で、海老フライの皿をこちらへ押しやった。その拍子に、哀れにも尻尾の方後ろ半分だけ残った海老フライが、やはり半分食い散らされたキャベツの中にころんと転がった。彼はもう、ハンバーグをより正確に半分にする使命に没頭している。また背中が丸まっている。
(私のハンバーグ・・・)
切り分けられたハンバーグの片割れが、端の方に寄せられた。私は素早くそれにフォークを突き刺すと、かぶりついた。
「意地汚い。待っていられないのか」
ハンバーグを飛ばしながら反撃に出た。
「私はひとつでいい!誰にも遠慮しないで、ひとつ丸々食べたいんだ。あなた流に言えば楽しい事や辛い事だって、半分こになんかしないで、ひとつ丸々欲張って味わいたいの」
怒っていた彼の目が、急に怯えた様になった。私に捨てられると思っているのか。ここで「さよなら」ときっぱり言えたら、格好良い悪女になれるのに。でもまだ、彼にとっていい女(ひと)でいたかった。
「じゃ、また、学校でね」
それだけ言って席を立った。
「あ!あの・・・割り勘」
力無い彼の言葉を振り切って店を出た。
いつか、彼と半分こする事が心地良く思える日が来るかもしれない。或は来ないかもしれないが、取敢えず今は「ハンバーグを丸々ひとつ、食べに行こう!」と固く決心した。
(終)
謝ることも忘れて、背中を丸め漫画本に夢中になっている彼に私はそう訊いた。
「『学校どこですか?』って、きついよね」
だが彼は乗って来ない。話題を間違えたかな、と思いつつ油で少しべたつく椅子に座った。すると、やっと彼が顔を上げる。
「あれ?眼鏡は?」
「うん、コンタクトにしたの。変?」
否定してくれる事を期待して、微笑みを準備する。・・・一分待った。でも言ってくれない。
「化粧もしてるの?」
戸惑いが感じられた。こちらも駄目か、とがっかりする。が、「綺麗だよ」という思い掛けない言葉に、水とおしぼりを運んで来たママと私が同時に彼を見る。多分私に言ってくれたと思うのだが・・・。ママは勘違いに気付いたのだろう、真っ赤になって注文を訊いて来た。
「僕は海老フライ定食」
「あ、あの、ハンバーグ定食を」
あからさまなお世辞に、きっと私も赤くなっていたと思う。グーッと水を飲んで心を静めた。
「コップに口紅、付いてるよ」
私は慌ててナプキンで汚れを拭いた。
「化粧するんだったら、気を遣わなきゃ」
彼の言葉は正論故に、却って生意気に感じてしまう。彼は大学の映画同好会の一年後輩だが、一ヶ月程前に交際を申し込まれたばかりだった。
「男の人と付き合うの、初めてなんだ」
その時は、声ばかりでなく気持ちも上擦って、馬鹿正直に打ち明けていた。
「僕は三回目かな」
あちらも正直に告白した。益々こちらは卑屈になる。二番目の彼女とは同じ下町育ちで気が合った、とも言った。三番目の私は北の山国育ちだ。
「海老フライ、お待ち遠さま」
彼の前に置かれた皿には、大きな海老フライが三尾、行儀良く並んでいた。
「半分こしようね」
彼の言葉に曖昧な笑顔を作る。始めはひとつの物を分け合う事で、二人の親密度が増す様な気がして嬉しかった。彼にもそう伝えたが、それもこんなに続くと煩わしい・・・。と、顔に出てしまったみたいだ。
「あのさ、食べ物の事だけじゃないんだよ」
諭すように語り始める彼。
「楽しい事とか辛い事を、これからさ、二人で半分こできたらいいなって思ってるんだ」
そんな大層な意味があったとは驚いた。しかし、一尾の海老フライを正確に半分にしようと奮闘している姿は滑稽で、せこいとも感じる。やっぱり半分こされるのは、食べ物だけではないだろうか。
「はい、ハンバーグ、お待ち遠さま」
私のお腹がグーと返事をした。
「忘れないでね、半分こだよ」
彼がきっちり言って来る。「はいはい」という返事と同じ位いい加減に半分にしようとしたら、皿が消えた。
「駄目だよ、それじゃあ。こっち、先に食べてて」
強い口調で、海老フライの皿をこちらへ押しやった。その拍子に、哀れにも尻尾の方後ろ半分だけ残った海老フライが、やはり半分食い散らされたキャベツの中にころんと転がった。彼はもう、ハンバーグをより正確に半分にする使命に没頭している。また背中が丸まっている。
(私のハンバーグ・・・)
切り分けられたハンバーグの片割れが、端の方に寄せられた。私は素早くそれにフォークを突き刺すと、かぶりついた。
「意地汚い。待っていられないのか」
ハンバーグを飛ばしながら反撃に出た。
「私はひとつでいい!誰にも遠慮しないで、ひとつ丸々食べたいんだ。あなた流に言えば楽しい事や辛い事だって、半分こになんかしないで、ひとつ丸々欲張って味わいたいの」
怒っていた彼の目が、急に怯えた様になった。私に捨てられると思っているのか。ここで「さよなら」ときっぱり言えたら、格好良い悪女になれるのに。でもまだ、彼にとっていい女(ひと)でいたかった。
「じゃ、また、学校でね」
それだけ言って席を立った。
「あ!あの・・・割り勘」
力無い彼の言葉を振り切って店を出た。
いつか、彼と半分こする事が心地良く思える日が来るかもしれない。或は来ないかもしれないが、取敢えず今は「ハンバーグを丸々ひとつ、食べに行こう!」と固く決心した。
(終)
-
2005/12/22 |
- オリジナル小説 |
- Comment: 0 |
- − | [Edit]
- ▲



