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‡孤蝶‡(赤ばっと様主催恋スナアンケートに掲載)
傷を負っているというのに、范火清はパトカーに押し込められ両側からしっかりと警官に挟まれていた。冷たい汗を手で拭ってふと顔を上げると、王凱歌が足を引き摺りながらこちらへ歩いて来るのが見えた。
(やっぱり、神宮児のヤツ、しくじったか)
凱歌は自首して来たのだな、と范は思った。しかし、警官隊の中に漂う緊張感と凱歌の厳しい表情に胸騒ぎを覚えた。凱歌がゆっくりと右手を伸ばした。
その手に握られていたのは拳銃だった。まるで警官隊に突入して行く様だった。
「馬鹿!そんなことしたら・・・」
范ははっとなった。やっていることが凱歌らしくない。なぜ?何のために?まるで誰かを守るためではないか。その時、きなこに撃たれた傷が疼いて、范は低く呻いた。
(そうか、あの女のためなんだな)
そう思うと、きなこへの嫉妬が再燃した。
その時、范を乗せたパトカーがゆっくりと動き出した。凱歌がこちらを見た。范は彼と目が合った様な気がした。
「兄さん!」
思わず范は子供の頃の様に、少し甘えた声でそう叫んだ。凱歌が一瞬、微笑んだ様に范には思えた。
パトカーが方向を変えた。パトカーの外も中も静かだった。あまりの静寂に、范は自分の耳がどうかなってしまったと思った。とその時、范の耳に銃声が聞こえた。幾つも幾つも・・・。
范は体を捻って後ろの窓から、凱歌の姿を見ようとした。だが、凱歌を囲む警官達に阻まれて見る事ができない。もう全てが終わってしまったのか。
「止めろ!車を止めろ!」
范は、中国語と日本語をごちゃ混ぜにしながら喚き暴れた。喚き声はいつしか咆哮に変わっていた。警官に殴られても吠え続けた。まるで獣だった。それはあまりにも悲しく痛々しいものだったので、警官達は耳を塞いだ。
(独りでいってしまったのは凱歌兄さん。独り残されたのは俺なのか)
范は声が嗄れるまで吠え続けた。きなこに撃たれた傷から血が溢れだしても、最早その痛みさえ感じなかった。范は傍にいる警官達にさえ見る事のできない傷から、血を溢れ出させていたのだった。それを最後の一滴まで搾り出さなくてはならなかった。そしてその時、もう自分は飛べないのだと気付くのだった。
(終)
(やっぱり、神宮児のヤツ、しくじったか)
凱歌は自首して来たのだな、と范は思った。しかし、警官隊の中に漂う緊張感と凱歌の厳しい表情に胸騒ぎを覚えた。凱歌がゆっくりと右手を伸ばした。
その手に握られていたのは拳銃だった。まるで警官隊に突入して行く様だった。
「馬鹿!そんなことしたら・・・」
范ははっとなった。やっていることが凱歌らしくない。なぜ?何のために?まるで誰かを守るためではないか。その時、きなこに撃たれた傷が疼いて、范は低く呻いた。
(そうか、あの女のためなんだな)
そう思うと、きなこへの嫉妬が再燃した。
その時、范を乗せたパトカーがゆっくりと動き出した。凱歌がこちらを見た。范は彼と目が合った様な気がした。
「兄さん!」
思わず范は子供の頃の様に、少し甘えた声でそう叫んだ。凱歌が一瞬、微笑んだ様に范には思えた。
パトカーが方向を変えた。パトカーの外も中も静かだった。あまりの静寂に、范は自分の耳がどうかなってしまったと思った。とその時、范の耳に銃声が聞こえた。幾つも幾つも・・・。
范は体を捻って後ろの窓から、凱歌の姿を見ようとした。だが、凱歌を囲む警官達に阻まれて見る事ができない。もう全てが終わってしまったのか。
「止めろ!車を止めろ!」
范は、中国語と日本語をごちゃ混ぜにしながら喚き暴れた。喚き声はいつしか咆哮に変わっていた。警官に殴られても吠え続けた。まるで獣だった。それはあまりにも悲しく痛々しいものだったので、警官達は耳を塞いだ。
(独りでいってしまったのは凱歌兄さん。独り残されたのは俺なのか)
范は声が嗄れるまで吠え続けた。きなこに撃たれた傷から血が溢れだしても、最早その痛みさえ感じなかった。范は傍にいる警官達にさえ見る事のできない傷から、血を溢れ出させていたのだった。それを最後の一滴まで搾り出さなくてはならなかった。そしてその時、もう自分は飛べないのだと気付くのだった。
(終)
‡蝶袖(ちょうしゅう)‡(赤ばっと様主催恋スナアンケートに掲載)
きなこが病院のベッドで目を覚ますと、枕元にかれんな花が飾ってあった。きなこにはなぜか、妙に懐かしく優しい気持ちにさせてくれる花に思えた。
「忍冬だとさ」
声がした方を見ると、戸口に雁太郎が立っていた。
「よかったな。手術は成功したよ。おめえ、大変な怪我だったんだぞ。母さんは女の子がこんなに傷を作って、って嘆いていたぞ」
雁太郎はちょっとおどけた言い方をした。安堵した顔をしていた。
「この花・・・」
「あ?ああ・・・。ホイさんの故郷に咲いている花だそうだ。結婚のお祝いに贈ってくれたんだ・・・」
きなこは蒲団をはねのける様にして起き上がった。そうして、忍冬をそっと抱いた。愛しいひとを傷つけまいとする様に。
「花を、贈ったよ」
最期にそう微笑んだ凱歌の顔が浮かぶ。自分がもっと強かったら、絶対に行かせはしなかったのに・・・。きなこの目から大粒の涙が幾つも幾つも零れては花びらの上に落ちた。
「ごめんなさい、ホイさん。私、あなたを守れなかった・・・。ごめんなさい」
小さな女の子の様に泣きじゃくる娘に、掛ける言葉も見つからず雁太郎は病室を出た。腑外無い父親だと自分を責めた。人の気配に見ると、戸の陰に船木が立っていた。
「よっ・・・」
雁太郎は力なく手を上げて、船木に彼流の挨拶をした。
「船木さんよぅ、長くなるぜ、きっと。結婚はもう」
きなこは船木との結婚を何度も延期している。今回、凱歌を目の前で亡くした。きなこの心の回復はいつになるかわからない。船木にこれ以上、結婚を待って欲しいとは言えない。ここらですっぱりきなことは別れて、船木に似合いの可愛らしい娘と一緒になったらどうか、と雁太郎は言いたかった。
「いいんです」
遮る様に船木が言った。彼の強い意志が感じられた。
「見守ってくれるのかい、ありがとうよ。だが、同情だけじゃあ」
「彼と・・・王凱歌と約束したんです」
雁太郎は、この生真面目な青年を気の毒に思った。
「ホイさんと?しかし、それは・・・」
凱歌が最後に船木にきなこのことを託していったその気持ちを考えると、胸が締め付けられる雁太郎だった。しかし、船木に今のきなこを委ねるのは酷ではないだろうか。凱歌の事を想い、彼のためだけに涙を流しているきなこを。
「いえ、それだけではないんです」
船木は婚約者の父親に、初めて自分の気持ちを打ち明けた。
「こんな事で彼女と別れてしまう程、浅いものではないんです。王凱歌と彼女の間に積み重ねられたものがある様に、僕と彼女の間にも一日一日育んで来たものがあると信じているんです」
(きなこは、俺の自慢の娘は、いい男達に愛された)
雁太郎の目が自然に潤んだ。きなこに笑顔が戻るのもそんなに遠くはないかもしれない。それは父親としての願いでもあった。
(きなこ、今はゆっくり羽を休めな。お前は十分戦ったんだ。そうしたら、周りをよく見てくれ。お前をずっと待っている男がいるからさ)
王凱歌が帰って来たと香港の刑務所のリーダー格の男にそっと耳打ちしたのは、普段から懇意(金の面で)にしている看守だった。
「意外と早かったな。また稼げるぜ」
と喜ぶ彼に、看守は首を振った。そして凱歌は骨となって、小さな箱に入れられて帰って来たのだと告げた。
「懲役250年だからな」
という看守の言葉に、男は凱歌の罪の深さを想った。そんな重い罪を犯したとは信じられない程、穏やかな顔をしていた小さな男の事を想った。
その看守の計らいで、男は暗く狭い独房で凱歌と再会する事ができた。缶ビールの飲み口を開けて小さな箱の前に置いた。刑務所の中では金で手に入らない物はない。
「王凱歌、お帰り」
ビールを一口飲んで真っ赤になっていた凱歌の姿を思い出して、男はふふっと笑った。酒が弱いくせに俺に付き合ってくれたっけな、と思い出す。
「お前とまた一緒に儲けようと思っていたのに・・・何だよ、また随分小さくなって帰って来やがって」
凱歌が静かに微笑んでいる。
「お前、帰る所は見つかったのかい?」
凱歌が頷いた様な気がした。
「そうかよ。よかったな。ゆっくり羽を休めなよ。もうお前を利用しようとする奴はいないよ」
男はもう一本、自分の手の中にある缶ビールの飲み口を開けると上に掲げた。
「王凱歌に・・・最高のスナイパーに乾杯!」
(終)
「忍冬だとさ」
声がした方を見ると、戸口に雁太郎が立っていた。
「よかったな。手術は成功したよ。おめえ、大変な怪我だったんだぞ。母さんは女の子がこんなに傷を作って、って嘆いていたぞ」
雁太郎はちょっとおどけた言い方をした。安堵した顔をしていた。
「この花・・・」
「あ?ああ・・・。ホイさんの故郷に咲いている花だそうだ。結婚のお祝いに贈ってくれたんだ・・・」
きなこは蒲団をはねのける様にして起き上がった。そうして、忍冬をそっと抱いた。愛しいひとを傷つけまいとする様に。
「花を、贈ったよ」
最期にそう微笑んだ凱歌の顔が浮かぶ。自分がもっと強かったら、絶対に行かせはしなかったのに・・・。きなこの目から大粒の涙が幾つも幾つも零れては花びらの上に落ちた。
「ごめんなさい、ホイさん。私、あなたを守れなかった・・・。ごめんなさい」
小さな女の子の様に泣きじゃくる娘に、掛ける言葉も見つからず雁太郎は病室を出た。腑外無い父親だと自分を責めた。人の気配に見ると、戸の陰に船木が立っていた。
「よっ・・・」
雁太郎は力なく手を上げて、船木に彼流の挨拶をした。
「船木さんよぅ、長くなるぜ、きっと。結婚はもう」
きなこは船木との結婚を何度も延期している。今回、凱歌を目の前で亡くした。きなこの心の回復はいつになるかわからない。船木にこれ以上、結婚を待って欲しいとは言えない。ここらですっぱりきなことは別れて、船木に似合いの可愛らしい娘と一緒になったらどうか、と雁太郎は言いたかった。
「いいんです」
遮る様に船木が言った。彼の強い意志が感じられた。
「見守ってくれるのかい、ありがとうよ。だが、同情だけじゃあ」
「彼と・・・王凱歌と約束したんです」
雁太郎は、この生真面目な青年を気の毒に思った。
「ホイさんと?しかし、それは・・・」
凱歌が最後に船木にきなこのことを託していったその気持ちを考えると、胸が締め付けられる雁太郎だった。しかし、船木に今のきなこを委ねるのは酷ではないだろうか。凱歌の事を想い、彼のためだけに涙を流しているきなこを。
「いえ、それだけではないんです」
船木は婚約者の父親に、初めて自分の気持ちを打ち明けた。
「こんな事で彼女と別れてしまう程、浅いものではないんです。王凱歌と彼女の間に積み重ねられたものがある様に、僕と彼女の間にも一日一日育んで来たものがあると信じているんです」
(きなこは、俺の自慢の娘は、いい男達に愛された)
雁太郎の目が自然に潤んだ。きなこに笑顔が戻るのもそんなに遠くはないかもしれない。それは父親としての願いでもあった。
(きなこ、今はゆっくり羽を休めな。お前は十分戦ったんだ。そうしたら、周りをよく見てくれ。お前をずっと待っている男がいるからさ)
王凱歌が帰って来たと香港の刑務所のリーダー格の男にそっと耳打ちしたのは、普段から懇意(金の面で)にしている看守だった。
「意外と早かったな。また稼げるぜ」
と喜ぶ彼に、看守は首を振った。そして凱歌は骨となって、小さな箱に入れられて帰って来たのだと告げた。
「懲役250年だからな」
という看守の言葉に、男は凱歌の罪の深さを想った。そんな重い罪を犯したとは信じられない程、穏やかな顔をしていた小さな男の事を想った。
その看守の計らいで、男は暗く狭い独房で凱歌と再会する事ができた。缶ビールの飲み口を開けて小さな箱の前に置いた。刑務所の中では金で手に入らない物はない。
「王凱歌、お帰り」
ビールを一口飲んで真っ赤になっていた凱歌の姿を思い出して、男はふふっと笑った。酒が弱いくせに俺に付き合ってくれたっけな、と思い出す。
「お前とまた一緒に儲けようと思っていたのに・・・何だよ、また随分小さくなって帰って来やがって」
凱歌が静かに微笑んでいる。
「お前、帰る所は見つかったのかい?」
凱歌が頷いた様な気がした。
「そうかよ。よかったな。ゆっくり羽を休めなよ。もうお前を利用しようとする奴はいないよ」
男はもう一本、自分の手の中にある缶ビールの飲み口を開けると上に掲げた。
「王凱歌に・・・最高のスナイパーに乾杯!」
(終)
‡胡蝶夢‡‡(赤ばっと様主催恋スナアンケートに掲載)
「円道寺君、ちょっと」
船木課長がきなこを案内したのは、集中治療室の様な所だった。物々しい機械に取り囲まれて、彼はいた。
「ホイさん・・・」
懐かしいひとの名を呼ぶきなこ。ベッドに苦しそうに寝ている男はきなこをちらりと見たが、何の反応も示さなかった。
「生きて・・・生きていたんですね。どうして教えてくれなかったの」
きなこは思わす船木に詰め寄った。
「いや、違うんだ。厳密に言うと彼ではない。クローンらしいんだ。1211は王凱歌のクローンを作っていた。しかも20歳の頃の」
だから、彼にはきなこのことがわからなかったのだ。きなこも彼が王凱歌と言われても、違和感を感じていた。彼女が知っている王凱歌は、やはり違うのだ。
彼の瞳には人を殺した深い悲しみも、きなこを愛した輝きも宿っていなかった。
「彼が発見された時、生命維持装置が壊されていた。今、手を尽くしているが・・・」
助からない。と船木の目が言っていた。
「コー・村木が捨てたのよ、彼を」
王凱歌が死んで、コーはクローンの凱歌を捨てたに違いない。それほどまでに、王凱歌本人を深く愛していたのだ。
「か・・・母さん・・・に・・・逢いたい」
苦しい息の下から、凱歌が哀願した。クローンであっても母を求める心は同じだった。だが、もう時間はない。きなこはバッグの中から写真を数枚取り出し、凱歌の手に握らせた。
「ほら、見て。ホイ・・・いえ、凱歌。お母さんよ」
中央に市江がいて、きなことその家族が彼女を囲んでいる写真だった。市江の快気祝いのパーティーを円道寺家で開いた時の一コマだ。
「お母さん元気よ。だから安心して。私の家にいるの。あなたのこと、忘れたことないわ。あなたのことを誇りに思ってるって、いつも言ってるよ」
きなこは、何とか市江の心を凱歌に伝えようとした。凱歌の不安も取り除いてやりたかった。
「ありがとう」
凱歌の発したその言葉を聞いた途端、きなこの感情が溢れだした。凱歌が警官隊に突入して行ったあの日に帰って行くきなこの心。
「ごめんなさい。ホイさん、ごめんなさい」
凱歌は、目の前にいる女性がなぜ自分を他の名で呼ぶのかわからなかった。しかし、彼女の涙に胸が痛んだ。
「泣かないで」
そう言って、既に鉛の様に重くなっている手で彼女の涙を拭いてやった。それが彼がきなこにしてあげられる精一杯のことだった。そして凱歌の手が力なく落ちた。再び王凱歌は、きなこの前から姿を消したのだった。霧の様に静かに消えて行った命だった。
「ちょっと、こっちの世界へ遊びに来ただけなんだよね、ホイさん。夢・・・だったんだよね」
逝ってしまった王凱歌の黒髪を、手で梳いてやりながらきなこは呟いた。
「でも、向こうで彼に逢ったら伝えて欲しいの」
傍にいた船木が目を伏せた。彼女から王凱歌へのメッセージは、愛の告白ではないかと思ったからである。
「私は意地でも幸せになるから。きっと幸せになるから、心配しないでって・・・」
きなこの言葉を聞いて、船木ははっと顔を上げた。震える彼女の肩を、船木はただ優しく抱き締めた。
(終)
船木課長がきなこを案内したのは、集中治療室の様な所だった。物々しい機械に取り囲まれて、彼はいた。
「ホイさん・・・」
懐かしいひとの名を呼ぶきなこ。ベッドに苦しそうに寝ている男はきなこをちらりと見たが、何の反応も示さなかった。
「生きて・・・生きていたんですね。どうして教えてくれなかったの」
きなこは思わす船木に詰め寄った。
「いや、違うんだ。厳密に言うと彼ではない。クローンらしいんだ。1211は王凱歌のクローンを作っていた。しかも20歳の頃の」
だから、彼にはきなこのことがわからなかったのだ。きなこも彼が王凱歌と言われても、違和感を感じていた。彼女が知っている王凱歌は、やはり違うのだ。
彼の瞳には人を殺した深い悲しみも、きなこを愛した輝きも宿っていなかった。
「彼が発見された時、生命維持装置が壊されていた。今、手を尽くしているが・・・」
助からない。と船木の目が言っていた。
「コー・村木が捨てたのよ、彼を」
王凱歌が死んで、コーはクローンの凱歌を捨てたに違いない。それほどまでに、王凱歌本人を深く愛していたのだ。
「か・・・母さん・・・に・・・逢いたい」
苦しい息の下から、凱歌が哀願した。クローンであっても母を求める心は同じだった。だが、もう時間はない。きなこはバッグの中から写真を数枚取り出し、凱歌の手に握らせた。
「ほら、見て。ホイ・・・いえ、凱歌。お母さんよ」
中央に市江がいて、きなことその家族が彼女を囲んでいる写真だった。市江の快気祝いのパーティーを円道寺家で開いた時の一コマだ。
「お母さん元気よ。だから安心して。私の家にいるの。あなたのこと、忘れたことないわ。あなたのことを誇りに思ってるって、いつも言ってるよ」
きなこは、何とか市江の心を凱歌に伝えようとした。凱歌の不安も取り除いてやりたかった。
「ありがとう」
凱歌の発したその言葉を聞いた途端、きなこの感情が溢れだした。凱歌が警官隊に突入して行ったあの日に帰って行くきなこの心。
「ごめんなさい。ホイさん、ごめんなさい」
凱歌は、目の前にいる女性がなぜ自分を他の名で呼ぶのかわからなかった。しかし、彼女の涙に胸が痛んだ。
「泣かないで」
そう言って、既に鉛の様に重くなっている手で彼女の涙を拭いてやった。それが彼がきなこにしてあげられる精一杯のことだった。そして凱歌の手が力なく落ちた。再び王凱歌は、きなこの前から姿を消したのだった。霧の様に静かに消えて行った命だった。
「ちょっと、こっちの世界へ遊びに来ただけなんだよね、ホイさん。夢・・・だったんだよね」
逝ってしまった王凱歌の黒髪を、手で梳いてやりながらきなこは呟いた。
「でも、向こうで彼に逢ったら伝えて欲しいの」
傍にいた船木が目を伏せた。彼女から王凱歌へのメッセージは、愛の告白ではないかと思ったからである。
「私は意地でも幸せになるから。きっと幸せになるから、心配しないでって・・・」
きなこの言葉を聞いて、船木ははっと顔を上げた。震える彼女の肩を、船木はただ優しく抱き締めた。
(終)
無 垢
奥寺櫂(おくでらかい)はビルとビルの隙間に小柄な体を押し込み、黒いコートのポケットから古ぼけた朱色の手鏡を取り出した。その鏡の部分を覆っている、薄汚れた布製のカバーを外す。それは微かに白粉の匂いがした。櫂は鏡を覗き込む。心細くなった時の彼の癖だ。自信の無さそうな目が、鏡の中からこちらを見ている。その目の向こうで、一台の車が停まった。
櫂はポケットに手鏡を突っ込み、代わりにナイフを取り出す。車の後部座席から降りて来た男の顔を確認すると、道路へと飛び出した。人生を変える光に向かって、自分は走り出したのだと櫂は信じていた。
櫂はポケットに手鏡を突っ込み、代わりにナイフを取り出す。車の後部座席から降りて来た男の顔を確認すると、道路へと飛び出した。人生を変える光に向かって、自分は走り出したのだと櫂は信じていた。




