しかしこの男の性格だろうか、苛々することもなく、香港という巨大な街が、ゆっくりと夜明けを迎えるところを興味深く眺めていた。新しい朝のひんやりとした空気が、ぬるく濁った夜の空気を追い出して行く。
凱歌は七歳になっていただろうか。母が日本に渡った後、父が亡くなって祖父との二人暮しにも慣れた頃のことだ。
日本の母から生活費が送られては来ていたものの、食べていくだけで精一杯で玩具を買う余裕などはなかった。つまらなそうにしている凱歌に、祖父は家の裏に生えている竹でパチンコを作ってくれた。
凱歌はその玩具に夢中になった。背の高い竹から舞い落ちて来る葉を撃ち、命中した数が増えて行くのを無邪気に喜んでいた。
が、ある日、凱歌は竹林の中に迷い込んで来た美しい羽の小鳥を、パチンコで撃ち抜いた。その獲物を得意になって祖父に見せると、祖父は悲しそうな顔をして
「むやみに、命をとってはいけない」
と諭したのだった。
自分の頭をなでてくれた祖父の節くれだった手を通して、祖父の悲しみと優しさを感じた凱歌は、もう決して小さな命を奪うことはなかった。
それからは竹の葉だけが、ターゲットになった。ある程度正確に撃てるようになったら、自分なりのルールを作ってクリアーする。できるまで粘った。
そして二年後、祖父との生活にいきなりピリオドが打たれた。凱歌の噂を聞いた中国政府が、凱歌をオリンピックの射撃の選手にと望んだのだ。ある日凱歌の家に軍の車が横づけされ、凱歌は射撃養成所へと連れ去られてしまった。
後に面会に来てくれた祖父の話によると、以前から、凱歌を養成所へ連れて来るようにと政府からの要請があったのだそうだ。祖父はそれを無視した。しびれを切らした軍が、強硬手段を取ったらしい。
そう、祖父は養成所に一度だけ面会に来てくれた。別れてから一年を過ぎていた。
広い面会室では、養成所の軍人達が見張りに立っているので緊張感もあったが、それでも、久し振りに家族の顔を見た訓練生達ははしゃいでいた。
家族も興奮していて、皆、一段と高い声で話に花を咲かせていた。テーブルの上には、母親が腕に寄りをかけて作ったご馳走が並ぶ。テーブルの下では、父親が「小遣いだ」と息子の手に紙幣を握らせている。
だが、凱歌と祖父が向かい合って座っているテーブルの上には、ご馳走どころか一杯のお茶も置かれていなかった。祖父はこの養成所までの汽車賃を捻出するだけで、精一杯だったのだ。
暗く寒々しい蛍光灯の下、面会室の硬い椅子に、祖父は痩せてしまった体を丸めるようにして辛そうに座っていた。
十歳になってはいたが、他の子よりも体の小さな凱歌には面会室の椅子は大き過ぎて、足を所在なげにぶらぶらさせていた。しばらく会っていなかったので、久し振りに祖父に会っても何だかはにかんでしまって、凱歌は下を向いてひたすら足をぶらぶらさせていた。
だが、凱歌は嬉しかったのだ。祖父からは懐かしい田舎の匂いがした。家族のぬくもりを感じた。
「これが、最初で最後かもしれない」
やっと振り絞るように祖父の口から出た言葉は、弱気なものだった。
「金がかかるし・・・わしの腰も痛むで・・・」
別れた時よりも、腰が曲がり祖父は小さくなってしまった。それを見れば、苦労の様子が見て取れる。
「また来て欲しい」という言葉をやっと飲み込んで、凱歌は黙ってうなずいた。
大人の少ない言葉から、その気持ちを汲み取ることができる子どもだった。それが凱歌を年齢よりも、ずっと大人びて見せていた。
だから、母親も凱歌を残していけたのかもしれない。
母を乗せたトラックを追いかけて、
「行かないで!」
と必死に叫んだのは、凱歌が初めて見せた精一杯のわがままだった。
その時恨んだのは、母親ではなく自分自身だった。
「早く大きくなりたい。強くなりたい。そうすれば、お母さんとずっと一緒にいられる」
小さな自分が恨めしかった。
今、祖父を目の前にしても、その思いは同じだった。
「僕が大人だったら、おじいちゃんに楽をさせてあげられるのに」
何もかも、家の不幸は凱歌自身が原因であるような気がして情けなかった。
面会時間が終わり、椅子から立ち上がった祖父が腕を伸ばして凱歌の頭をなでた。以前と変わらない、その手のごつごつとした感触が嬉しかった。そしてそのお返しに祖父に凱歌がしてやれることは、祖父の大好きな笑顔を見せること。
祖父はその笑顔をしっかりとまぶたに焼きつけるように、凱歌を見つめていた。
数ヵ月後、教官に呼ばれた時、予感はあった。案の定、祖父が亡くなったことを知らされた。
手早く身支度を整えると、軍用車に乗せられた。長い道のりを懐かしい我が家へ向かう。もう、ぬくもりなどない家へ。
故郷では、近所の人が集まって葬儀の準備をしていた。軍人に付き添われて帰って来た凱歌を、大人達は驚いた様子で遠巻きに眺めていた。
それでも、冷たくなってしまった祖父の傍らに座った凱歌に、隣に住んでいる小母さんが声を掛けてくれた。
「凱歌ちゃん、今どこにいるの?市江さんが帰って来た時に」
彼女の言葉は、軍人によって断ち切られてしまった。
「何を話している?余計なことは喋るな」
凱歌は母につながっている一本の糸が、ぷっつりと音をたてて切れてしまったような気がした。
祖父との別れもままならないまま、凱歌は再び軍用車に乗せられて養成所に戻った。
自室に入ると、涙が頬を伝った。
「ああ、もう泣いてもいいんだ」
泣き言を言えば家族には会わせない、と脅されて今日まで我慢していた。だが、もう泣いてもいいのだ。会いに来る家族など、いないのだから。
母は、自分がここにいることを知らない。だから、会いに来てくれるのを待つのではなく、こちらから会いに行こう。
射撃で中国一になる。そしてオリンピックで金メダルを取り、英雄になって母を日本から呼ぶ。今までの不幸せなんて忘れてしまうぐらい、母と二人で幸せに暮らすのだ。
そんなに全てがおとぎ話のようにうまくはいかないだろう、ということは子どもの凱歌にも分かっていた。だが、その夢にすがりつくしか、自分を保つ方法はなかった。
「王凱歌、聞こえるか?王凱歌」
レシーバーから、男の声が聞こえて来た。
「作戦は中止だ。ターゲットは殺すな。和解が成立した」
凱歌はホテルに向けていた銃口をおろした。思わず安堵のため息が出た。
それを、怒りのためと勘違いした男が慌てて謝る。声が上擦っていた。
「す、すまない。ナンバーワンのあんたを引っ張り出しておいて、こんなことになってしまって」
「ありがとう」
「え?今、何と?」
凱歌はレシーバーを切った。
「おじいちゃんが、助けてくれた。のかな」
香港の朝の空へと、鳩が飛び立って行った。凱歌は眩しそうに、それを目で追った。いつもとは違う一日が、始まるような気がした。
(終)
☆赤ばっと様と、
すべての「恋人はスナイパー」ファンに捧げます。